阿蘇

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九州の中心にある阿蘇山は世界有数のカルデラを有する火山で、
「火の国」熊本県のシンボルです。

カルデラの中央には、
阿蘇五岳(高岳、中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳)が聳え、
中岳の火口は時々噴火し、煙を上げ続ける活火山です。

吸い込まれそうな迫力の中岳の噴火口の前に立つと、
地球が一つの生命体である、ということを実感します。

阿蘇の景観は、主に中岳の噴火口付近や根子岳の断崖、
砂千里が浜などの岩石の風景、草千里に代表される草原の風景、
広葉樹林、スギ植林の樹林から成っています。

噴火口から砂千里が浜では、
火山灰、火山性ガスの影響で、
植物の生育に適さない極限の環境で、
イタドリとコイワカンスゲなどの
限られた植物しか生えていません。

そこから少し離れると、
ミヤマキリシマなどの灌木がみられるようになり、
次第に、植物の多様性が増して行きます。
草千里まで離れると優しい草原となり、
牛馬が放牧されています。

草原の風景は、自然のままで成立するのではありません。
毎年春に野焼きを行なうことで、
樹林になるのを防いでいます。

スギ植林も、見事なまでに手入れが行き届いています。
阿蘇山の雄大で優しくて、全てを包み込んでくれるような風景は、
自然の元々の姿ではなく、
自然と人間が共生して、
手を加えていくことで維持されているのです。

日本人は、古来より自然と共存し、
山、海、樹木、岩石などを神々として、
畏敬し、崇拝してきました。

阿蘇山も、古くから火山信仰の対象となってきました。
6世紀の中国の歴史書「随書倭国伝」には、
「阿蘇山有り、故なくして火起こり石は天に接するほど、
人々はおそれおののき祈りをささげ祭り事を行った
(原文:有阿蘇山其石無故火起接天者俗以為異因行祷祭)」
と記されています。

カルデラの盆地では、清涼な水が湧き、
人びとは農業を営んできました。

火山の噴火による火山灰の堆積によって、
農業に被害が出る事もあります。
農作物が無事に育つように、
人々は火山に向かって祈りを捧げていたそうです。

豊かな実りをもたらし、
時々大きな災いもおこす自然を、
私たち日本人は縄文時代から、
調和をはかりながら、
自然の実りも脅威もまるごと受け入れてきました。

阿蘇山は、
日本人の自然と共生する生き方がつくりだす、
日本が世界に誇る場所です。

日本の最も大切なものは森が守っている


(熊本県 幣立神宮の森)

三島由紀夫は
「日本人が最後に守らなければならないものは、三種の神器である」
と言ったそうです。

三種の神器は、天皇陛下の皇位継承の証です。

三種の神器は「八咫鏡(やたのたがみ)」
「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」
「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」です。

古事記の中で、瓊々杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨の際に、
天照大神(あまてらすおおみかみ)が授けたものとされています。

八咫鏡は、伊勢の神宮の内宮に祀られています。
また、その形代(かたしろ)が、皇居の中にある宮中三殿賢所(かしこどころ)の
真ん中のお社に祀られています。

草薙剣は、名古屋の熱田神宮に、
その形代(かたしろ)と、八尺瓊の勾玉は、
天皇陛下のお住まいの御所の寝室の隣にある
「剣璽(けんじ)の間」という部屋に
納められています。

ご縁があって、これまで三種の神器が祀られてある
皇居の内部、伊勢の神宮、熱田神宮に訪れました。
その3カ所の共通点は、いずれも大きな樹々が林立する
見事な樹林の中にある、ということです。

皇居の中でも、特に御所、宮中三殿付近の樹林は、
東京の中心部とは思えないほどの見事な、高木の樹林です。
この樹林の樹々は、普通ではありえないほどのスピードで
大きくなったのだそうです。

いずれの地も、ただ巨木が立ち並んでいるだけではありません。
その場に立つと、外界とは明らかに異なる
清涼な空気に満たされていて、ただならぬ土地の気配、
土地のエネルギーを感じます。
エネルギーが強いときは、頭痛がしたり、目眩がしたりします。

森の巨木達の力で、三種の神器の場所が守られているようで、
そこに立っているだけで、心身が清められていくような気がします。

そういえば、日本の国土の7割は森林で、
日本は世界有数の森林国です。
日本の国自体を森が守っているのかもしれません。

古事記を読んでみましょう。

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古事記を読みました。

古事記は、世界の創世から、日本の国の成り立ち、
皇室の由来が記された、国家が編纂した歴史書です。

古事記が記されたのと同時期に、同様の国家編纂の歴史書として
「日本書紀」が有名で、この2つを合わせて「記紀」といいます。

なぜ、同じに時期に2つの歴史書が出来たのかというと、
古事記は日本国内向け、日本書紀は海外向け、
つまり当時の中国向けに書かれたものだからです。

日本書紀は漢文で書かれているので、
中国の人にも読めますが、
古事記は、万葉仮名で書かれています。
万葉仮名は、日本語の音に合わせて、
一音一音に漢字を当てた表音文字なので、
文字だけを見ると意味が分かりません。

古事記はずっと昔から読まれてきた訳ではありません。
古事記の存在は知られていなかった書物で、
真福寺写本が発見されて、
江戸時代中期の国学者、本居宣長が40年かけた研究のおかげで、
今の私たちが読めるようになりました。

古事記なんて、難しそうと思って敬遠していましたが、
読み出してみると、どんどんのめり込んでしまいました。

日本の各地を旅行する際、伊勢や出雲など神社を訪れる際に
読んでおくと、「あ、この神様知ってる!」とか
「あの神話の関係のある場所なんだ」とか
楽しみも増えますよ。

古事記はいろいろ現代語訳の本がありますが、
こちらが読みやすく翻訳されていますのでおすすめです。

「現代語古事記 決定版  竹田 恒泰 」

和・輪・わ

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聖徳太子の十七条の憲法は、
「和を以て尊しと為し・・・」
という文から始まります。

憲法というのは、最も大事なことから書かれるものですが、
十七条の憲法では、「和」から始まっています。
この「和」が日本において最も大切なことだということですね。

「和」とはいったいなんでしょう。
これは、「けんかをしないで、みんなで仲良くしよう」
という意味ではありません。

「和」は和える(あえる)という意味で、
ぐちゃまぜに混ぜることです。

つまり、いろいろ異なる文化、意見、考え方を取り込んで
まぜこぜにして、より良いものをつくりだすことです。

昔から、物事を決めるときに話し合いによって決められてきた。
いろんな意見を出し合って、その中から答えを探し出し、
最適な結論が決まったら、みんなでそれに従う。

これが十七条の憲法で、最初に書かれた重要なことなのだそうです。

荒神谷遺跡の記事や天安河原の記事でも書きましたが、
聖徳太子よりずっと昔から、日本では話し合いによって
お互いを尊重しながら、いろんな文化や考え方を受け入れて
より良いものをつくろうとしてきたのですね。

「和」は、音にすると「わ」ですね。
日本には漢字が伝わるまで文字がなかった(と一般的にいわれている)ので
「わ」という音で発音していたものに
「和」という文字を当てたとも考えられます。

他に「わ」には「輪」という文字もあります。
「わ」と発音するときには、口の形は輪になります。

ここは勝手な想像ですが、みんなで円形に座って、
話しあいで意見を出し合って物事を決めている状態を
「わ」と言ったのかもしれません。

ところで、あまり知られていませんが、
この十七条の憲法は、17条の条文のものが5種類、
合計で85条あったそうです。
その5種類は神職、僧侶、儒者、政治家と公務員に向けたものでした。

写真は、2008年に国立新美術館の美術展に出展したときに制作した
インスタレーション作品「circle」です。

バリ島の宗教・バリ・ヒンドゥー

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写真:Jagat nata寺院

インドネシアのバリ島の宗教は、
バリ・ヒンドゥーというバリ島独特な宗教で
島民の大半が信仰し、生活、文化、習慣の基礎となっています。
インドネシア共和国は、国民の90%近くはイスラム教です。

バリ・ヒンドゥー教は、もともとバリ島にあった土着宗教に
インドから伝来したヒンドゥー教、仏教などの影響を受け、
インドのヒンドゥーとは違った独特の宗教になりました。

バリ・ヒンドゥーは多神教で、
すべてのものに神々が宿るという精霊信仰の考え方です。
日本の「八百万(やおよろず)の神」と似ています。

自然の中に神々が宿るというアニミズム的な信仰は、
もともと、自然からの恵みが豊富な地域で生まれたものです。

多神教はもともと世界各地にあったと考えれていますが、
欧米の植民地時代を経て、
今では、数少ない地域で残っているのみです。

日本も、土着の信仰(神道につながる)に、仏教が伝来して、
お互いに影響を与え合って、融合していきました。

日本もバリも、外来の宗教を排除しないで、
受け入れながら、独自に進化させてきたということが
とてもよく似ています。

出雲の荒神谷遺跡と出雲の国譲り

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写真:荒神谷遺跡。銅剣が出土したときの状況を再現している。

去年の10月に出雲を旅行してきました。

出雲に荒神谷遺跡という史跡があります。
この遺跡では、1983年に、
広域農道建設のための遺跡調査が行なわれた際に、
それまで日本各地で見つかっていた銅剣よりも多い、
358本もの銅剣が、未使用の状態で整然とならんで出土しました。
この発見は、当時考古学において世紀の大発見でした。

銅剣というのは、当時は大変貴重な武器であり、
それが、これだけの本数を所持していたということは、
当時の出雲の国が超軍事大国だったということを意味します。

にもかかわらず、
古事記で記されている「出雲の国譲り」では、
話し合いにより大和朝廷に国が譲られたとされています。

武力ではなく話し合いによって国が譲られる、
という事自体が現実的でないとして、
この古事記の逸話は長年信じられていなかったそうです。

でも、この荒神谷遺跡の発見によって、
大きな軍事力を持っていたにも関わらず、
戦った形跡がないということで、
この話の信憑性が高まりました。

出雲の国を治めていた大国主命(オオクニヌシノミコト)が、
国譲りの条件として、天にも届くような大神殿を建築し、
出雲大社を残すということでした。
現在は、出雲大社において、太い柱の跡が見つかっています。
この神殿が実在していたとすると東大寺をはるかに凌ぐ、
世界最大の木造建築だったということになります。

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写真:出雲大社の御柱御用、古代の高層神殿を支えた柱を再現したもの

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写真:出雲大社

軍事大国でありながら、話し合いによって戦わずして、
国を譲った条件として、出雲大社を残す、ということは、
つまり、その地の宗教は、尊重して残すということでした。

現代の日本人が「宗教」という言葉をきくと、
「なんだかうさん臭い」とアレルギーを持っている人もいますが、
本来、宗教、信仰は、人間にとって、
最も大切な「心の拠り所」です。

宗教・信仰を強制的に変えられたり、押し付けられたりすることなく、
相手の価値観や文化を尊重しながら話し合いによって
国が統一された古代の日本は、
世界史の視点から見ても奇跡でしょう。

ミャンマーの仏像はかわいい

ミャンマーの寺院、仏教施設を訪ねると、
日本の仏像とは、まったく異なる雰囲気の仏像を見ることができます。

ミャンマーは敬虔な仏教国で、
人々は働いて稼いだお金を
寺院に寄進したり、仏塔を建てたりします。

この国の仏像たちは、
色白で明るくて、かわいい、
という印象を受けます。

白い肌に、あでやかに化粧をして
にっこり笑っている巨大な寝大仏に
圧倒されたりします。

寺院というより、
テーマパークのようで、
けっこう楽しいです。

寝大仏はもともと
お釈迦様が亡くなるときの
涅槃に入られるときの様子を現わすものですが、

このミャンマーの寝大仏は、
とてもそんな様子には見えず、
なんだかちょっと不思議です。

親しみやすくて、良いんですけどね。

インドのエローラ石窟寺院

前回に引き続き、インドの石窟寺院です。

インドのアジャンタ石窟寺院の次は、
エローラ石窟寺院を訪れました。

アジャンタが原始仏教の遺跡なのに対して、
エローラは、仏教、ヒンズー教、ジャイナ教の寺院が
横に並んでいます。

ジャイナ教は、あまり耳慣れない名前ですが、
仏教と同じ時代にインドで発生した
仏教よりも厳しい戒律の宗教です。

ジャイナ教の寺院は、柱や壁の装飾が、
ギリシャ神殿を思わせる、美しく繊細なデザインで、
たいへん驚きました。

ヒンズー教の寺院は、様々な神々、象などの
彫刻が施されています。

インドのアジャンタ石窟寺院

去年、インドのアジャンタ石窟寺院とエローラ石窟寺院を
訪れました。

石窟寺院は、ノミで、山の岩盤を掘って、
洞窟の寺院を掘られたものです。

アジャンタ石窟寺院は仏教遺跡で
世界遺産になっています。

作られた時期は前期と後期に分かれて、
前期は、紀元前1世紀から紀元後2世紀、
後期は5世紀後半から6世紀頃とされています。

洞窟の中は、
岩盤をそのままくりぬきながら、
作られた仏像や柱の装飾など、
部屋の岩盤と連続していてます。

つまり、洞窟を掘りながら、
そのまま仏像も掘っていったということです。
本当に気の遠くなる作業です。
人間の力の凄さを感じます。
世界遺産とは、こういうものだと思います。

よく、仏師の言葉で、
「木の中にお釈迦様がいて、それを掘り出しているだけだ」
という言葉がありますが、
洞窟の奥の薄暗い照明に照らされた仏像を見ると、
山の中の岩盤の中に仏様がいて、
長い年月をかけて、
掘り起こされたのではないか、という感覚に陥りました。

真っ暗の洞窟の中で、
そんな仏像の前で、
ひんやりとする岩盤の床で、
しばらく座禅をしてきました。

古代インドの僧侶達が、
ここで暮らし、修行をしていたのだと
感慨にふけりました。

この寺院では、三脚の使用ができないので、
真っ暗な中、手持ちで沢山の写真を撮ってきました。

このような場所では、
ISO感度をオートにして、高感度で撮影します。
それでもシャッタースピードは、
手持ちの限界に挑戦するほどゆっくりです。

一枚一枚、仏様に手を合わせるような気持ちで、
シャッターを切りました。

大乗仏教と上座部仏教


(写真は、ラオスの朝の托鉢)

前回の続きです。

お釈迦様の教えが、
それを教わった弟子達によって、
異なったということで、
仏教組織は、
厳密に戒律に従うべきという保守的なグループと、
もっと臨機応変でいいのでは、という革新グループに
大きく二つに分裂したのです。

この会議では
とても些細な事も、
意見が分かれたそうです。

革新グループは、たとえば、
托鉢で頂いた食事は、残してはいけないが
塩は蓄えていいのか、
正午以降食事をしていいか、
牛乳は正午以降も飲んでいいか

といったことまで要求したそうです。

革新派は、大人数だったため
「大衆部」と呼ばれました。

一方、
戒律には従うべきだという厳格なグループは、
会議の場で上座の方にすわる長老が多かったため、
「上座部」と言われたそうです。

この最初の大きな分裂を
「根本分裂」といいます。

大衆部は、「大乗仏教」(大きな乗り物)と名乗り、
上座部を小乗仏教と馬鹿にするような呼び方をした、
ということです。